Jan 03, 2010

アンチエイジングとシワについて

アンチエイジングは、加齢によって老化に少しでも抵抗して美しさをいつまで続ける必要があります。特に、シミやしわは、年齢に応じて増やすこともあります。アンチエイジングは、シワやシミの原因を理解し、改善することもあります。しわにはいろいろな種類があります。シワ対策も重要なアンチエイジングです。
フォトフェイシャルは、光を照射することで、様々な肌トラブルを解消する美容方法です。フォトフェイシャルで解消することができるお肌の悩みに、シミ、そばかす、ニキビ跡などさまざまな症状を一度に解決することができます。フォトフェイシャルに使用される光は、IPLという光がカメラのフラッシュのようにビトウルイムロお肌に優しいのが特徴です。
 「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展・連動企画。デザインは「コンセプトが大事だ」と、倉俣さんにはそう教わったと語るのは、三保谷硝子店の三保谷友彦氏。倉俣史朗氏のガラスを使いた作品すべてを担当してきた三保谷友彦氏に話を聞く。

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デザインは「コンセプトが大事だ」と、倉俣さんにはそう教わった――三保谷友彦

――倉俣史朗さんと三保谷さんの最初のお仕事は、新宿の「高野」(1969年)だったそうですね。

 ガラスで大きな四角いガラスの空間をつくった。扉も什器も全部ガラス。当時はガラスといえば、窓ガラスかせいぜいデパートのショーケースくらいだったから、こんなふうにガラスが「面から立体になる」ということが分かって、とにかくカッコいいと思ったね。

 そのころ、僕は学校を出てすぐの24歳。倉俣さんに出会う前は人生なんて軽いものだと思って生きてきたからね(笑)。三代目だから何の苦労もなく、親父が「店を継げ」っていうからやればいいかな、くらいの気持ちではじめたから、最初はガラス屋がイヤで。

 でも、倉俣さんに出会って「よし、やろう」と決めた。もし倉俣さんに出会わなかったら、この辺りで不動産屋でもやってバブルが弾けて大失敗してたんじゃないかな(笑)。

――それから長年にわたって、さまざまなお仕事を倉俣さんとされてきたわけですね。数えきれないほどのやり取りがあったかと思いますが、もっとも印象に残っていることを教えてください。

 いろんなことがあったからなぁ……。今回の「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展は1981年以降の家具の仕事が中心だけれども、それ以前の倉俣さんの作品、とりわけインテリアの仕事はインパクトがあった。

 例えば、赤坂の「クラブ・ジャッド」(1969年)。倉俣さんはここのコンセプトをこう教えてくれた。「お酒を飲みに行くところは、ちょっとした期待感と後ろめたさがあわさった色気のある場所。お寺にお参りするとき、暗いうっそうとした森を通って山を登り、本堂に神々しく光を感じる。そんな風に、一度、真っ暗闇に落とす。そして、行く先に音と光を感じながら進んでいくんだ」と。この店は入口にたどり着くまでに真っ暗な回廊を回りこんで進むようになっていて、距離感と時空間を超え、大人の世界に入っていくような背中がゾクゾクするような期待感を持たせてくれる。

――写真でしか見たことはありませんが、そのかっこよさは伝わってきます。

 でも、本当に入ってみないと分からない。今考えるとアーティストのジェームス・タレルの、光の表現にも感じるね。もちろん倉俣さんは彼よりも先にやってたからね。

 インテリアデザインって、音楽やファッションとかが全部入っているんだと……カッコイイなぁと思った。結局、きちっとしたコンセプトがあると、何か物理的に「この形はつくれない」とぶつかっても、すぐに戻って、次に動くことができる。基本的な考え方がはっきりしていれば、それに沿って考え直せばいいわけだから。でも、最近のデザイナーは形から先に入ろうとすることが多い気がするね。デザインは「コンセプトが大事だ」と倉俣さんにはそう教わった。

――三保谷さんと倉俣さんは、職人とデザイナーとしての理想的な関係を築いていたと感じます。

 俺は倉俣教の第一号信者で、子分だから(笑)。弟子はたくさんいるけど、子分は俺しかいない。倉俣の印半纏は、僕と倉俣さんだけが持ってたんですよ。印半纏っていうのはお店(おたな)から出入りの職人にあげるもの。洒落で「つくってくださいよ」といったら「そんな金無いもん」って。じゃあ「僕がつくってもいいですか」っていったら「いいよ」って。

 それで、倉俣家の家紋っていうのは、八角形に「二」という字なんだけれど、倉俣さんはグラフィック的にそれがイヤで、丹下左膳と同じ、六角二文字がいいと。「家紋変えちゃっっていいんですか?」っていったら「いいよ」って(笑)。

 僕が羽二重で、倉俣さんが紬で、生地を変えて同じ染めでつくった。倉俣さんは、そういうことも楽しむ、洒落っ気のある人。倉俣さんの紬は、葬儀のときにお棺の中にいれてもらったから、もうありません。今回の展覧会のオープニングで僕は半纏を着て出たけれど、もう着ることもないだろうね。

――今、もし倉俣さんが生きていたとしたら、どんな仕事に取り組んでいたと思いますか。

 何しろ倉俣さんは江戸っ子だから、新しもの好きで、何でも最初にやろうとしていた人だからね。本質を見抜く力がすごいから、限界もぱっと分かるんだと思う。その限界を越えるものを、つくろうとしていた。

 例えば、「硝子の椅子」(1976年)。板ガラスの小口を透明に接着できなかったのが、紫外線を当てれば透明で硬くなる接着剤ができて、それで美しく板ガラスを組むことができるようになった。その技術を見て、倉俣さんはたった30分で「硝子の椅子」のデザインを描き上げた。

 乃木坂の「ルッキーノ」(1987年)では透明のプリント配線ができないかと、さんざんやっていた。インゴ・マウラーが特許を取ったとかいってるけど、そんなもの、とっくの昔に倉俣さんはやってる。

 うちが2年前にアクシスギャラリーで行った「三保谷硝子店 101年目の試作展」では、倉俣さんがアクリルで制作した「ルミナスチェア」をガラスでつくりました。これは最高の技術で、ほかではできないもの。曲げることはできたとしても、場所を決めてここに座面を作り出すのは、まずほかではできない。

 もし今、倉俣さんがいたら、全然違う形のガラスの曲げ物をやっていたでしょうね。リサイクルのガラスでも、きれいなものをつくっているんじゃないかな。

●PROFILE:三保谷友彦
1945年東京・霞町生まれ。東京・西麻布の三保谷硝子店(創業明治42年)の3代目。1960年代末、倉俣史朗との出会いにより、ガラスの可能性に開眼する。以降、ガラスという素材の可能性を追求し、建築、インテリア、アートなど幅広い分野のトップクリエイターのものづくりをサポートしている。

【草野恵子,エキサイトイズム】
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